航海~5.看取りから大学院へ
より。
父危篤。その一報に押されて夕暮れから走り始めた高速道路は、もう暗くなっていました。
妹から「息をしていない!」とLINE。
私は胸張り裂ける思いで、病院の駐車場に滑り込みました。
病室の扉を開けると妹が「早く早く」と呼びました。
私は駆け寄って、父のあたたかな、しかしもう動かない手を握りました。
その後医師が入室し、死亡確認されました。
しかし、長いこと私は「医師が気をまわして私が到着するまで死亡確認をしなかっただけではないか?」という疑惑から逃れられませんでした。それを確かめることが、怖くてできませんでした。伯父伯母たちから「TETSUYAは父の死に目に会えた」と声を掛けられたことで、それ自体が親孝行だったとの評価を感じて、かえってプレッシャーになったのです。
一周忌の後、ようやく妹に「間に合ったんだよ」と教えてもらいました。
私は父の死に目に間に合ったのです。
看病に消耗した妹たちは泣きながらも、苦しみから解放された父を、看護師さんたちと一緒に優しく世話(エンゼルケア)していました。
しかし、私はその瞬間ごく自然に重荷を背負いました。
母には到底任せられないこと。
介護と医療のキーパーソンから、今や喪主となったのです。
地縁から切り離され疎遠になっていた親戚中に連絡を入れ、私は思いがけず父の続きを生きることになったのです。
葬儀のすべてと菩提寺を決めなくてはなりませんでした。父がどこに「帰る」か、私が采配しなければならないのです。
しかし、いくつかの記憶の細い糸により、親戚とつながりのある葬儀社とお寺につながることができました。
私は「偶然」うまく嵌ったと思っていましたが、父は「自然に」自分のルーツに結び付けられて還っていったのです。
父の長兄が守る、祖父の墓に父は眠っています。
また、大学院に連絡を入れ、しばしの休みを連絡しました。
そうして、社会的なものと父を切り離していく後始末と母の経済的・介護面の体制を整えてようやく帰宅しました。
疲労困憊でした。
仲間たちは学び舎に戻ってきた気遣いと拍手をもって私を迎えてくれました。
大きな衝撃ではありましたが、学びを遅らせるつもりは毛頭ありませんでした。
しかし、介護とターミナルケアでいくつもの「選択」を迫られて来た私は、学びながら幾度もフラッシュバックに悩まされることになります。
続く。