4代の夢~共通テスト2日目。
私どもの娘は本日、共通テスト2日目を受けている。
駅までは2日とも私が車で送った。
あっけらかんと、マイペースで夢に向かって、親の夢まで軽やかに背負って駆けていった。
私の知る系譜の、彼女は4代目、である。
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父方の親戚は職人の一族。
祖父が復員後作った会社で、父は兄(私から見て伯父)らに仕えてきた。
伯父伯母たちは親戚づきあいにやかましく、仏事を大事にし、地に根を張って生きてきたように思う。
母はそういうのに疎く、そもそも変わり者で、そちらの親戚からは浮いていた。私ども兄弟も苦労した…のかもしれない。
父の死を切っ掛けに交流するようになったが、地縁や人の縁を大事にする篤い人柄の義伯母はなるほど「地方の名士」であるなあと思った。
しかし私にはそのような丁寧なお付き合いは少々重荷だ。
もう私には「根」はないのだ。
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母方の親戚とは私たちは少なからず交流があった。
私は従妹たちの「先生」なのだ。大学時代に家庭教師をしていたのだ。
彼らにはずいぶん経済的に支えられたものだ。
私の敬愛する母方の祖父は、実直な父方の祖父に比べて軽やかな経歴を持つ。
勉強熱心で物知りで剽軽で器用な祖父を私はまことに敬愛していた。懐いていたといっていい。
彼は生きるためにいろんな仕事をしたが、鉄工所経営の頃が一番羽振りが良かったようだ。
「もう少しで株式会社になれるからと頑張りすぎて胃潰瘍で入院している間に倒産した」そうだ。やはり健康が一番の財産なのだなあ。
晩年は写真館をやっており、私の記憶もそのころの祖父だ。軍服の写真を見てもピンとこない。
その写真の腕は相当なもので、市内県内のコンテストを総なめにし、ついには出禁になったが、息子(上述の叔父)の名前で応募して入選してしまったそうだ。
実は従軍中も「航空写真兵」として飛行機に乗る毎日で、戦線にいたことはない。捕虜になったのもモンゴルで、シベリア抑留されたそうだ。
でも、その気性を愛され、またロシア語を習得し「共産党宣言」を読み通す頭の良さを可愛がられ、「そんなに苦労してはいない」ということだ。
そんな祖父だが、写真のほかにも芸術的素養があったようだ。
母は、ランドセルを祖父にデザイン・着色してもらったとか、油絵の手ほどきをしてもらった…と語る。
そういえば母は私の美術の宿題にも、うるさく口を出してきた。羽振りのよかったころ「お嬢様学校」で学園生活を送った母は、芸術を愛したように思われる。
しかし、祖父の工場の破産とともに、母や叔父らは「現実」と格闘することになるのだ。
芸術は封印された。
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私はといえば、この母の執念で「受験勉強」に特化した少年時代を送ってきた。
絵を描くのは好きではあったが、それに時間を掛けることはしたいと思わなかった。絵ではなくテストの結果で褒められるからだ。
それでも人生のはざまにひょいっと、イラストやデザインを残すことがあった。
高校の同窓生ももしかしたら、私のデザインしたマグを保管されているかもしれない。
さすがに大学の同窓生で、私のデザインしたトレーナーを保管されている方はいないと思うが。
病院報や求人募集パンフレットも、もうとっくにプロのデザインに切り替わった。
妻も芸術を愛する良き市民だ。
海外旅行が好きで、4大陸の各地に行きながら、旅行記は絵日記である。
それでも二人の人生に、美術で食っていけるという発想はなく、美大・芸大は遠い世界のものという感覚があった。
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娘は社会学や歴史の学びを生かし、SDGsや環境問題に関する学外コンテストで入賞するなど成果を上げ、そちらに行くのではないかと周囲も思っていた。
ある日、親に「大事な話がある」と切り出した。
今のルートで普通の大学に行くのはいやだ。
本当に好きなことを学びたい。
そういう会社で働きたい。
デザインをしたいのだ。
彼女にとって、プレゼンの内容よりもその「クリエイト」の方が楽しかったのだ。
それから彼女は芸大受験に取り組み始めた。
クリエイターではなく、デザイナー。
そして歴史や哲学をしっかり押さえてくれる学校。
尊敬できるOB・OG。
だから私は国公立を目指す、と。
その思いを私どもは了承した。
浪人上等。
アートの志が継がれたことを、私は喜んでいる。
父方でなく、母方の系譜に娘が連なろうとし、敬愛する祖父から4代目。
本日、共通テスト2日目。
夢は結実するか…と問う必要は、ない。
もう結実するまで走り続けるだけだろう。