航海~7.父を殺そうとした私
より。
今回は、書きながらとても苦しみました。
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苦しみの極致、人は「楽になりたい」と願うものだと思います。
「快楽」を感じることがあるのも、苦しみから逃避する装置であると、誰かが言いました。
それは脳内麻薬のなせるわざであります。
「もう楽になりたい」であれば、希死でありましょう。
しかし、「治療してまたはリハビリをして、元の生活に乗った上で楽になりたい」であれば治療に望みをかける意欲でありましょうし、「身体がしんどいから緩和してほしい」であれば、マッサージや温浴・アロマ、音楽療法、そして麻薬の投与などのケアを集中的に行うのが有効かもしれません。
当人の意思を十分にくみ取れない場合、家族や介護者の思いが、色濃くケアに反映されると思われます。
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入院して1週間、病院から「酸素濃度が上がらない」との連絡をいただき、高速を飛ばして病院に駆けつけたのです。
ついた時にはもう平静に落ち着いていました。
病院から、「代謝が落ちているので、毎日の処方の麻薬が排出されず蓄積していることにより、呼吸数の低下が起こったらしい。今は麻薬の投与(貼付)をやめているので、今は落ち着いているが、このまま麻薬を切っていると、身体症状と苦痛がぶり返すであろう」と説明されました。
「ということは、再発の危険がある…?」
「そうですね」
私はうなだれました。
苦痛を取り除くと父に誓った。
それなのに麻薬は命を縮めるという。
悩みの裏で、生まれた思いがありました。
悪魔の声でした。
麻薬を継続すれば、父は楽になれる。
苦しまなくてもよくなる。
沈黙を破るようにドクターは「呼吸抑制が起こらないように、麻薬の量と頻度ははコントロールを図っていきますからね」と告げました。
しかし、もう一つの悪魔が私の中にいました。
呻きが漏れたようです。
ドクターが「はい?」と聞きました。
「あの、麻薬の再開はもう少し待って下さい…」
再開すれば死ぬかも知れない。
麻薬の再開の決定は、死刑執行の命令書にサインするようなものだと思いました。
それを医学的知識の乏しい家族親戚に知らせれば、うまく情報を処理することはことは難しい。どう決めても誰かから非難されるだろう、それは怖いことでした。
彼らには、結果だけを知らせればよい。
つまり、「今が今はの際なのか、部屋に集まるべきかどうか」。
コントロールすべきは、死期であります。
父の苦しみを感じながら、私は父のきょうだいたち(おじ・おば及びその配偶者)や、父の子供たち(私の弟妹)の集まれる日を考えたのです。残される人たちの満足と、父の痛みの緩和を天秤に掛けたのです。