航海~6.介護と看取りの選択がフラッシュバックする
続きです。
父の緩和ケアと介護と死を通じて経験し、ぶつかった問題のフラッシュバックに悩まされた日々を書きます。
父は肺がんとその転移により、確定診断からわずか2か月で死去しました。
高校を卒業して県外へ出てからは、全く離れて暮らしてきた父の介護と終末期、見取りと喪主としての務めを、このごく短期間にずっしりと背負ったのです。
その間、瞬時に決めなければいけないことが絶え間なく降りかかってきました。
「これでいいのか?」
「正しいのか? 間違っていないか?」
「誰にとって正しいのか?」
それは、決断を下し、実行した端から、
「あれでよかったのか?」
「自分の判断は独りよがりではなかったか?」
「誰かが怒っていないか?」
に代わっていきました。
それらの問いはしばしばフラッシュバックし、日常生活に帰ってきた私に安寧を許さないのでした。
在宅医に緩和病棟を軸に探してもらい、紹介してもらった医療療養病棟への入院前夜、泊まり込んだ夜。
何度も苦しそうに起き上がり、寝返り、私を呼ぶ父。
私は求めに応じて尿器を当て、背中をさすり、翌朝来るはずの民間救急の搬送を待っておりました。
ほぼ食事はできず、介護士が枕元に置いてくれる栄養剤と飲み物で、数日命をつないでおりました。
今は大小便ともおむつの中、それも、訪問介護の1日1度の交換のみ。尿意のたび尿器を当てようとして失敗し、そこらを濡らしていたと聞かされました。2週間前にはまだトイレに歩いていき、和式便座しかなかったので腰掛便座をおいてもらい、何とか立ち上がっておりましたのに。
母が精神的にも身体的にも介護者となりえない現実のなか、医療資源はもとより、介護資源の脆弱な「地方」において、終末期の在宅介護を決断したのは無謀ではなかったか。
進行の早い肺がんや慢性呼吸器疾患に対し、介護保険はあまりに遅い。要介護判定が出るころにはさらに生活レベルが悪化しているので、必要な時には介護サービスの単位数が足りないのです。
知識としては知っていたけれど、自分の父に当てはめることを怠ったのではないか。第一選択として入院加療だったのではないか。
入院して、介護度判定してから、在宅看取りかを決めるというルートもあった。私はいったん入院したら、退院できないであろうと思っていたのです。
なにしろ、介護者不在の家ですから。
キーパーソンとなってしまった私。
「治療はしたくない、抗がん剤はしない」といった父の言葉を聞き、緩和ケアを受けながら、できるところまで家で過ごす…という方針に尽力してきたつもりでした。
しかし、私は真意を取り違えたのではないか。
病院で死ぬことについて、父は受け入れていたのかもしれない。
あるいは、その時は自宅に帰りたいと言ったとしても、ずっとそう思っていたかどうか。
起き上がれなくなってからは、心細かったのではないか。
…故郷の最新の医療資源について不案内だったため、選ばなかっただけかもしれない。もっと早くに調べるべきだったのではないか。
「入院をもっと早く決断すべきではなかったか」
父の兄弟たちからもちらっと聞こえた言葉。
まさに私の悩みの中心をえぐる問いでした。
「故郷の父の周りの人たちがみな、そう思っていたのではないか」
それは恐ろしい想像でした。
続く。