TETSUYAの航海

テツガク好きな医療人です。時々イラスト練習中。

航海~4.父、危篤

航海~3.父の在宅生活の終わり - TETSUYAの航海
より。

父はかかりつけ医が見つけてくれた病院に入院しました。
医療療養病棟
緩和だけを求める肺がんの父にはうってつけの病棟でした。
親戚たちは古い人間ですから、入院できればなにかしら「よくなる」ものと思っています。
しかし、私は片道切符であることを知っていました。
だから、医師にCPR(心肺蘇生)について聞かれたとき、「いりません」と答えました。
苦しみを長引かせてほしくない。切実にそう思ったのです。
母の意向も知っていました。
古い療養病院暮らしだった祖父(母の父)が亡くなる際、心室細動でもなんでもなく、三度目の心筋梗塞であったのですが、AED(除細動器)をかけられました。
祖父はもちろん蘇生することはありませんでしたが、母は「お父ちゃんがかわいそうや…」と、その後何度も私につぶやいたのですから、母はすべてのCPRを嫌がることでしょう。


父は、私と満足に長い文章の会話をすることもできません。
鼻に酸素チューブを入れ、TPN(中心静脈栄養)を作ることになりました。
食べ物を飲み込めるように嚥下訓練をしてみてほしいとお願いしたところ、師長さんは「もちろんですよ」と請け負ってくれました。
帰り際、病院の明るいベッドで、父がとてもほっとした表情だったのが忘れられません。
(といってもどの場面も忘れることはないと思います)

社会人大学院ですので、平日の日中は通常勤務です。昼休みもそこそこに密度濃く業務を組み立て、5時ダッシュして電車に乗ります。
夜間の授業は、18時過ぎから、90分二コマずつです。
私は最小限の単位を取って済ますなんて気が収まりませんでした。魅力的なシラバスが、ごろごろ転がっています。どれ一つとっても、研修に行けば1~2万円の会費を払う講義です。欲張りにも、週4日の二コマと、土曜は朝から5コマを埋めてしまったのです。
ゼミも決まり、私は猛烈に勉強を始めました。
父のことを病院に任せたつもりでした。落ち着いたら顔を見に行こう。

しかし、がんの進撃はあまりにも無情でした。
わずか2週間後、病院にいた妹から、悲痛なLINEが届きました。
「SPO2があがらない!」
危篤状態です。
淡々と仕事をこなし、おもむろに上司に緊急事態を報告し、引継ぎ事項を整えました。
大学院に欠席連絡を入れました。
心の中に大嵐が荒れ狂っています。
電車で帰るか、いったん帰宅して車で出るか、迷いましたが、”もし万一”があれば、車が必要になる場面が多い。
私は高速道路に乗りました。

LINEはどんどん絶望的になる状況を伝えてきます。
私は…間に合うのだろうか。