航海~3.父の在宅生活の終わり
コロナでも休めない(収入があるのはありがたい)医療者のTETSUYAです。
断続的に「航海」シリーズを書き継いでいきます。
大学院入学を前にして、父ががんと診断されたところまででしたね。
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私は母に頼まれ、故郷の父を、かかりつけ医に紹介された救急病院に送迎し、外来受診に付き添いました。
頑健な父が、もう車を自分で運転することも難しくなっていました。
父は、肺がんステージ4と診断され、転移もあり、進行するのみと宣告されました。
「しんどいのは嫌だな。痛みや苦しみだけを抑えてほしい」
この父のつぶやきを全面的に叶えるため、抗がん剤をやらないで在宅緩和ケアをしていくと決めたのです。
両親は、長く別居していました。しかし離婚はせず、交流さえしていました。
母はすでに介護生活。その通院を送迎したり、生活費を援助したりしていたのでした。
それもここに至っては、すべてが止まる。
両親ともに介護を立て直さなければなりません。
訪問リハビリに従事している私は、兄弟の中で最も介護に精通していますので、3日のうちに在宅介護体制を作り上げました。
妹も毎週帰省するなど献身的にかかわってくれます。
4月を迎え、私は大学院生としての生活をスタートさせました。
故郷のことは故郷の人に任せ(一部妹に任せ)、私の猛勉強が始まったのです。
必ず真ん中の列の最前列に座り、ノートをめちゃくちゃにとり、すべての授業の終わりに質問を用意する。そのような授業態度に、周囲から一目置かれていきました。班を作ってのプレゼンテーションにも、前に出されるようになっていきました。そうして社会的にすごい医療人たちから、仲間と認められ始めたのです。
まことに楽しい数週間でした。
しかし、がんの進撃は早く、あっという間に父は食べ物がのどを通らなくなり、みるみる瘦せていきました。
食べ物が食べられていれば、もう少し、子供らによる介護を享受することができたでしょう。
母から、父が失禁して泣いている、来てくれと、私に悲鳴が発せられました。 1か月もたたずに、父は布団から立てなくなり、おむつ生活になっていたのです。
訪問介護が朝昼に来てくれます。
訪問看護が毎日来てくれます(医師の特別指示「ガン末期」により)。
しかし、飲み薬は飲めず、鎮痛剤・麻薬も自分では貼れていないのです。
なにより栄養が摂れませんので即死の恐れがあります。
在宅生活の終わりが近づいているのです。
長男の私に決断が委ねられています。
急ぎ帰省することにした私は、かかりつけ医に電話し、入院先を探してもらいました。
入院前夜。
一晩父に付き添い、水を含ませました。呼ばれればすぐ起きて、背中をさすり、尿器を当て、おむつを替え、手を握り、明日の搬送を待っていたのでした。
民間救急は有料です。現金払いです。
それで、父は入院したのです。
私だけが、これは片道切符であることを知っていました。
母の顔、付き添った叔母の顔、そして父の顔。
一様に、ほっとしていました。
それで私も、ほっとしていることに気が付きました。
そこで初めて、私は親戚たちが「なぜ早く入院させないのだ」と言っていたことを知ったのでした。
母には決断も手続きも無理でしたし、父ができるだけ自分の家で(死にたい)と願ったことなど、みな知る由もありませんでしたから…
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続きます。