両性の対話(個々の、そして全体の)
ジェンダーの垣根はどんどん穴が開いてきて、「男らしい」「女らしい」で語られることすら怪しい。
と思っていたのですが。
日本政府はどうしても変化を拒絶する。
人類からの逃避を決め込んでいるようです。
まあ女性の変化を追い切れず、サポートできないが故の少子化。
このざまです。
(フランスはそこそこ成功しているというお話)
便乗して
私の
性との
付き合い方を
思い出して綴ります…
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こんな主人公たちをご存じですか。
※イラストは私の手書きです。
二人とも伝説的女装男子キャラです。
「男の娘」のはしりですね。
TS(性転換)とは違います!
女装男子だからこそ、憧れることができる相手だったのです…いやいや、なんて図々しい笑。
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高校時代は体を鍛えたけれど(腹筋割れてたんですよ?)、精神性としてのマッチョは嫌いでした。
また田舎の無神経さも苦手でした。そこから逃げ出すことが目標でした。
とにかく人を暴力的にあるいは強引に従わせようとする力から逃れようとしていました。
18の歳に大学入学とともに故郷を出ました。
初めて都会で一人暮らしを始めた思春期。
親から与えられた服しか着たことがなかったのですが、初めて服も自分で買うことになり、戸惑いながら自分の嗜好と向き合ったのです。
ショートスリーブ、ロング丈シャツ、フレンチスリープカットソーとか。長いシャツを腰ベルトで絞ってみたり。
「男らしくない」柔らかさが好みでした。
女性性をまとえば、マッチョから逃れられるかもしれないと願ったのでしょう。
今も夏でもカーディガンを羽織ります。
隣り合わせの人に素肌が触らないように。
Tシャツ1枚とかありえない。
大体、夏の電車の中…寒いし。
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暴力性。支配欲。無責任。がさつさ、乱暴さが嫌いでした。
そういうものであらわされる「男性性」から逃げたかった。
どうして男は女の子を傷つけてしまうのだろう。
そして自分も男なのだ。年ごろゆえ濃くなりゆく髭。
大学合唱団の卒業コンサートを前に挑戦しました…
顎髭を全部抜くのって6時間かかるんですよー…
私は、時代が許せば「男の娘」になったのかもしれません。
しかし、世の中での「男性性」の存在意義に気づいていきます。
相手を傷つけることがなければ、ぶっきらぼうでも独りよがりでも悪くない。
責任感をもつならば、ぶった切る勇気も必要…
いや、それがなければ、事態が動かないことだってある。
忖度して、きょろきょろしてても、私には何も変えられないではないか。
様々な挫折を経て。
人に接するのには、男性性・女性性どちらでも、ただお互い人として認め合えればいいのだと…いつのころからかあっさり思えるようになりました。
そもそも男性性のすべてが嫌いなわけではない。
ただ人に丁寧に接したいと思っていただけです。
それなのに、嫌気のあまり後足で砂をかけるような逃げ方をしていれば、「マッチョ」と大差ない(そういう反省があります)。私も修業が足りません。手遅れかもしれませんけどね。
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父の死をきっかけに、田舎とも和解し、関係修復を始めました。
あんなに嫌だったしきたりや押し付けも、社会の潤滑油になることを認めました。
(多様性を「振れ幅」として認めてほしい気はする)
大体、社会的にも「男らしい」「女らしい」は、使うべきでない時さえある言葉になりました…問題を隠すレッテルとして機能することがあるためです。
包摂(インクルージョン)。
それは対話からしか生まれません。
必要なのは言葉のドッジボールではなく言葉のキャッチボールなのです。
まして「聞き流す力」や「検討力(棚上げ)」は必要ない。
人は、従わせるのではなく、対話のために”共感”の準備をするべきなのです。
そうでない文明は滅ぶでしょう。
それほど現在と未来の環境は厳しいのだから。
ただ、両極を行ったり来たりするのが人間。
個としても、群体としても。
何度でも反省し努力すればいい。
そういえば私、何度目の反省か。