TETSUYAの航海

テツガク好きな医療人です。時々イラスト練習中。

人間は分け合えるか

はてなに帰ってきて、しばらくのんびりしていましたが。

そろそろ「テツガク」したいと思います!

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人の心を折るのは一瞬

親が子の心の背骨を折る瞬間とは。

 

例1)「あなたが最高!」「生まれてくれてありがとう!」という賛辞をいくら並べても、一方でスマホの相手で「今忙しいの」と相手の顔を見ないという事件があったとします。

親には「事件」でもなんでもないことでしょう。しかし、子供の時代には…「文句なく自分は尊重される存在であると信じられる」は削り取られ、育つ前の自尊心の芽をなくすきっかけになるでしょう。

そのような子には人権感覚は一生理解できないでしょう。

 

例2)「悪いことしてはいけない」と諭しながら、赤信号を「早く来なさい!」と渡る。

子供の倫理観の芽は混乱するばかりです。

 

これらの状態は、子供にとって善悪の判断を育てるのではなく親に決めてもらわなければならないという教育です。親の顔色をうかがう子供を作るだけ。「心の背骨」など育ちようがありません。

反抗期や、親が子に頼るべき時期が来たら、それこそ「なんだかわからない」ことをし返されるでしょう。

差別の誕生

また例えば、差別は誰の心にもありますから、差別を生むことは簡単です。

「京都ぎらい」井上章一、朝日選書

参考図書「京都ぎらい」より。

「嵯峨の生まれか。昔お百姓さんがよう肥を汲みに来てくれたんや」

よほど強固なプライドを持っていなければ、このようなマウントに簡単に服従してしまう。「キレる」のも、相手の価値観を認めたからこそ起きる反応です。

人の心が弱いままならば、差別は再生産されていくしかないのです。

 

我々は後の世代の「心の背骨」を折れないよう育てることはできるのか?

もし我々が、後の世代の「理不尽な反抗」を回避したければ、歯を食いしばって自分のココロの筋トレをすることが必要なのです。

差別はどこから来るか

しかし改めて筋トレが必要とは、厄介な生物ではありませんか。

学校で何を習ってきたのでしょうか? 役に立ってないですね。

 

 

なぜそうなるのか。

 

人は「比べる」心性を強く持っているから…と考えます。

 

隣のやつ「より」。

昨日「より」。

 

量において、あるいは質において「より」上に行きたい。

 

 

「質」ならばカテゴライズで勝負できるかもしれない。

「量」さえ、単位を変更すれば、勝負できるかもしれない。

カテゴライズやその中の序列化を求める心。

それこそが「差別」を生む心性です。

 

すなわち、人が差別をくらい、そこから逃れるために必要なもの。

いずれも、同じなのです。

 

生き物は、自分に必要なもの以外は自然と「分け合う」等になっていますが、人間は「比べる」ために、集め続けなければならない。

分け合わない。

弱いものは叩き続けなければならない。

ブルースは加速していく。

ブルーハーツですね。

心の筋トレ

分け合うには、人間故に生まれてきたこれらのものを、克服する必要があります。

 

「分け合う」ことを、種の存続に必要と考えるか、そんなことは不要と考えるか。

そこが分かれ目でしょう。

 

もし、人間が「分け合う」ことを「是」とすることができるなら。

 

いったん、”『より』志向”を、克服する必要があります。

いえ、すべてを捨てるわけではありません。

ありのままの自分、手持ちの自分で、良しとする心です。

 

それは強固なプライドを必要とする。

誰かに比べられても動じない心が必要であります。

 

それが「心の背骨」であります。

それを改めて育てるのが「心の筋トレ」です。

ありのままの自分を知れば、自分にどうしても必要なものを知れば、逆にそれを理不尽に奪うものには、命がけで怒ることができるでしょう。

 

かつて日本には「徳育」という考え方や教育がありましたが、それは「国家」に利用され、中身をすり替えられた歴史を持つがゆえに、現代では「徳育」そのものが忌避される傾向にあります。

 

しかし、本当の「徳育」こそは「心の筋トレ」なのだと思います。

それは具体的に”どう”するのか…

項を改めて探求していくべき重い課題です。

「人望の研究」山本七平祥伝社