出会いは必然~1.その前夜の物語。
ライフワークの「航海」をほっといて、新章開始。
そういうやつです私。
テツガク的に書きとめたい一言が出てきたので、そのプロローグから書き起こします。
前夜編
私の跡を継いだ2人
私が今の病院に、前の職場で一緒だったA氏を招いて部署の再興を図ったのは、彼の突破力と構想力を買ってのことでした。
じきに、私が細々と始めた新部門を任せることになります。
また、事務や管理の整理に長けたB氏をさらに引き込むことに成功しました。
この二人で私の苦手なことをカバーし、リハビリテーション科から始まる病院改革に向けて、万全の推進力を得るはずでした。
しかし、私が病院の中で悪戦苦闘している間に、Aは、在宅部門をあれよあれよという間に拡大し、私のもとから独立し、一大事業部を作り上げました。
一方私は、過剰労働や改革のストレスなどから「抑うつ状態」に陥り、自律神経失調をきたし、休職しました。
職場復帰した時には一般職に降格していました。Bが長となっており、病み上がりの私を迎えました。
体重は10kg落ち、風が吹いても倒れようかという風情、寒さに極端に弱くなり、もこもこの格好での出勤でした。
しばらくは週休3日、時短勤務で、昼休みもリハビリ室のベッドで倒れているというありさまでしたが、与えられた職務は、何とか穴をあけずにこなしておりました。
トレード
AとBの二人の間でどんな綱引きややり取りがあったのかはわかりません。
半年後、私は事務長に呼ばれました。
「Aがあなたを自部署に迎えたいと言っている。どうか」
…Aの思いは正確にはわかりません。「自分はTETSUYAさんに拾ってもらった。今度は僕が助ける番だと思った」と、のちに述懐しました。少しはそう思っていたのでしょう。
当時の私を「戦力になる」と思っていた人は、この病院にはほとんどいなかったと思います。だからBは私を手放したのだと思いますから。
しかし、私は少なからず、前向きに移籍を受け入れたのでした。
事務長面談で脳裏に浮かんでいた過去のシーンがありました。
Aがまだ私から独立したばかりのころ、「足並みをそろえてほしい、まだ改革は早い」と請うた私に、彼は「患者さんには待つなんてことは許されない。現場ってどこですか。なんだったらうちの部署にきて研修されてはどうですか」と投げつけたのでした。
(彼は半分本気でした。そう、患者のため、利用者のためと思えば何でも、もちろん身内を一番、踏みつけにできる人物なのです)
私は個人的にはそれもいいかもしれないと思っていました。ただ、部署を離れるわけにはいかない、まだ誰にも部署を任せることはできないという焦りやあきらめが大きかったのです。
いまや、しがらみから解き放たれ、誰にも期待されず迷惑をかけて当たり前の身分になりました。
「研修」に行こう。
とても前向きに、受け入れたのでした。
戦力外には冷や飯
Aはそういうつもりだったかもしれません。
しかし、その部下たちは、そうは思っていませんでした。
「ベテランが来るのだからある程度働いてもらわないと困る。うちがなんで半病人を受け入れないといけないのか、重荷である。病院どっぷりのベテランを、在宅仕様に意識改革するのはするのは骨である」
そういう雰囲気は徐々にわかってきました。
私空気読むので。
想像ですが、私の病名は正確には伝えられていなかったようです。単に自律神経失調症と。本人を見てみながっかりしたのではないでしょうか。「抑うつ」は「うつ病」と症状は同様なので、そのように扱ってほしかったのですが。
一番きつかった言葉はこれです。
「できないんならできないと、ちゃんと言ってください」
そもそもそれが言えたら、抑うつに追い込まれてないんです。
そういう雰囲気や言葉に包まれていたので、病名を公表はされていないだろうと推測しています。
もともと他人にはそれほど期待しない私ですが、そういうことを体験したので、人の世の無情といい加減さを納得しました。
「ああ無情」…はビクトル・ユーゴー。
アン・ルイスは「あゝ無情」。