医療資源…すなわち保険制度の再構築
産業構造の転換期には、労働市場の流動性を前提に、労働力は業態を変えて移動するため量が確保されるというのが、自由主義の立場であるが、それは商品・サービスが何らか交換可能であることが前提である。
フィルム産業市場は縮小し、映像記録デバイス・媒体はデジタルカメラに移行し、さらにそのデバイスも多くがスマートフォンに置換されたように。
生命はどうであるか。
個人にとっては主観性があるため交換不能である。
医療はどうであるか。
医療は命そのものではないが、生命に直結するがゆえに、代替商品が限られている。
そして、交換可能だとしても、サービスを一つ消費している時間に、加齢によって起こった心身の状態の変化は取り戻すことはできない。
よって、医療へのアクセシビリティは、生命の価値を左右する。
また、国家(あるいは集団)全体としては、医療資源の質と量が生命の質と量を規定するため、生命の選別が行われている。
医療へのアクセシビリティの要件として、地理的要件と病床数、そして経済的キャップがある。いかにして地理的に病床数を確保するか、そしてどのくらいまで経済的キャップを緩和するかは、政治の仕事である。
医療および保健(QOLを考えれば介護を含めるべきであるがここでは置く)を支えるには、すなわちそれらを育て、守り、できるだけ多くの人に門戸を開くためには、とても人手と時間と費用がかかる。
倫理の共有やマニュアルの徹底のために、「教育」も必要なのであるが、それもここでは置く。
日本の医療資源を検証したい。
急性期病床及び感染症対応病床、はOECD諸国の中ではかなり多いほうである。
しかしながら、人口1000人当たりの医師数は、OECD諸国中では下から数えたほうが早く、OECD平均の3.5人を大きく下回り2.4人である。
人口1000人当たりの看護師数はOECD36か国中10位、数ではアメリカ並みであり上位である。
もう一つ、それを支える支出は、対GDPでみれば平均を大きく下回る。フランスよりイタリアよりスペインより低い。
https://www.jmari.med.or.jp/download/RE077.pdf
すなわち、病床だけあっても、医師がいない。
病床が多いため、看護師も散らばっている。
なによりお金をかけていないのである。
これが国民皆保険を維持してきた背景事情である。
もっとも、どれくらい準備すれば適正なのかということは、議論されるべきである。すなわち、何が適正かを決めるのは、国民の選択であるべきだが、忖度行政と秘密結社的内閣の下で、長くその機会を奪われてきた。
まあ、選挙結果が変わらないことがその原因であるのだから、現状こそが「国民の選択」と言えなくもない。
日本では、人口減少社会にあっても、より多くのアクセスを可能にすることと、より多くの資源を使うことを両立させようとしているが、それは甘えた話である。
どちらかを削ってさえ、医療費の国民負担を増加させていくしかないのである。
消費性向として、個々が他の分野より、医療・保健にお金を割くべき時代といえるかもしれない。
(「保健」には食が含まれることを追記しておく。食に関しても、丁寧に向き合い、掛けるべきお金は正当に掛ける覚悟が必要ではないか)
一生はどう暮らしても1回である。
快適に暮らすとはどういうことか。そのために働き、社会を作り上げるべきではないのか。
消費増税が介護の充実に充てられる、といいながら、ほかの分野にお金を回してしまう国であるが、我々は、医療・保健・介護にもっと歳出を割いておくべきではなかったか。