TETSUYAの航海

テツガク好きな医療人です。時々イラスト練習中。

葛藤を語る死刑囚の言葉の、本当と噓

 

植松被告の死刑が確定した。

 

「(面会や手紙のやり取りをできなくなるのは悲しいので)控訴の取り下げはやめようと思ったこともあったし、心の葛藤はありました」

 

葛藤はどの程度あったのか。

本稿ではそれを検証したい。

 

被告(死刑囚)は、死刑の確定とともに接見に制限が加わることを指して、「これからの生活を考えると、誰とも話ができなくなるので、気が重いです」と語った。

 

生活…を彼に断ち切られた19人を思うと腹立たしい発言であるのはひとまず置く。

 

接見した静岡県立大学短期大学部の佐々木教授の「なぜ」に対して「目立ちたかったから」という返事さえした。

教授に「こんなことをしたら外には出られなくなる。それに死刑になるかもしれない」と言われても「それはわかります。でも目立ちたかったんです」と語った。

罪を犯すということの続きに、誰とも話ができなくなるということがあるのを想像できない、もしくはそれでも今、この思いを我慢できない者であるのだ。

 

 

死刑になることを望みながら、それまで誰にも話を聞いてもらえないのがつらいという。

目立ちたいと思いながら、その反応を自分で知ることができないのを不満に思う。

 

友人に語っていたという。

「 自分は選ばれた存在だから。イルミナティカードで救世主と予言されてる。UFOを見た」

その根拠は、イルミナティカードの画像から、語呂合わせすると自分の名前になると言うことだ(何かを逆に読むと、3、10、4になり、それが「さとし」と読めるということらしい)。

それを聞けば、年齢が違えど、神戸の事件(1997)を思い出す方も多いのではないか。

 

人物像としてわかることは、物事の両面、あるいはそれに引き続いて起こることの両面を、客観的に見て検討することができないということ。

そして、自分がヒロイックに酔うことのできる結論に飛びつき、その思い込みから出てこないということだ。

 

だから、「控訴取り下げに対して、それほど葛藤はなかったであろう。あったのは、死刑への具体的な恐怖だけだ」と私は結論付ける。

 

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誰かが、誰かを「殺していい」ということは、社会のために作られたルールに乗っ取ってのみ許可されている。誰かがルールを超えて恣意的に決めることのできる社会に戻してはいけない。

それは、自分がその対象にならないために、わざわざ革命を起こしてまで、「文明」が作ったルールだ。

「人権」を平等に持つということは、そういうことだ。

 

ルールを逸脱して、自分勝手な思い込みを実行するものは、これからも出てくるであろう。その都度やりきれない思いを、私たちは味わうのだ。

そして、市井の人々だけでなく、ある程度権力を持ったもの(最高権力者でさえ!)がそういったことを行っている。見習えとでもいうように。

であれば、このような事件は、増えるであろう。

私たちは文明を守り切ることができるか?