脳内都市1.「心洗われる経験は命懸け」
ある福祉業界の方がブログで吐露されていました。
「自分は都市の中で障碍者の作業所のスタッフをしているが、ある時大自然の中で経営されている別施設を見学する機会に恵まれた(施設の詳細は語られません)。
雄大な自然を感じて日々を過ごす、その作業所に魅せられ、利用者の回復すらこの大自然に任せるべきではないか… そういう思いにとらわれる。
そして、自分の境遇を引き比べ、自分の生活や仕事(場)に空虚さを感じる。
しかし、そのふわふわした気持ちを抱えて自職場に戻ると、利用者が待っていて、『自分の居場所はここだ』と改めて感じた」…というお話でした。
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山本書店社長にして思想家・山本七平氏は、ユダヤ教・キリスト教には造詣が深く、中東・エルサレムには何度も行かれています。イザヤ・ベンダサン名(本人は生涯認めなかったが)で「日本人とユダヤ人」を表すほどのユダヤ通であります。
山本氏はこの本の中で(多分他の著書でも)シナイの大砂漠と神殿の壮大さを見た経験を書かれています。
食うや食わずの人間が、ニューヨーク・パリなどの大都会に連れていかれれば息をのみ、圧倒されるでしょう。
ルーブル美術館に行けば、「モナ・リザ」にため息をつくでしょう。何度も再訪する「ルーブルかぶれ」という人は少なくない。
それが、ですよ。
シナイ山の頂上からみる聖カタリナ神殿を見下ろしますと―
そこは巨大な砂漠。
岩と砂と太陽だけの雄大さ、美しさ。
陽光とともに刻々と変化する岩肌の色と光のシンフォニー。
人間の造作が壮大な景色に比べてあまりに卑小に見えるのでした。この地に生まれたならば、偶像禁止は当然だろう。「これが神だ」といってみせても、人は笑い出すか、讀神だと怒るであろう。
息子さんも同行されて「もう人間の造形などは見られなくなってしまうな」。
話は続きます。
山本氏はその翌日に「メシャ碑文」を探しにルーブル美術館に行かれたのですが、レオナルド・ダ・ヴィンチの「洗礼者ヨハネ」像に偶然出会い、山本氏はその眼に射抜かれてしまうのです。
「モナ・リザ」のそばにあるのに観光客たちは「洗礼者ヨハネ」には目もくれません。多くは「モナ・リザの本物を見たわ」という土産話を得ただけで、何も心象風景は変わらないでありましょう。
それは彼にとってのみ、涙で心を洗われる体験でありました。
もう一度まとめます。
圧倒的な景色や大自然の景色・音・匂い・味・肌感覚には、人は心を奪われ、意識を加えた六根のすべてが書き換えられる体験をします。
しかし、一見心をとらえられたような感動を覚えても、人はなかなか自分の想像力の身の丈生活から外れることはしません。
内的な「常識」は強固です。
常識とは生きるためにうまく過ごしやすいルールの集積ですから、生きていくためには、生中な刺激ではこれまでの常識を変更してはいけない。
もし、新たな意識にとらえられたら、もとの世界では生活が成り立たないのです。
何日食えなければ人は死ぬのか、
あるいは何日絶望すれば人は死ぬのか、
それはわかりませんが、生活が断絶すれば命の危機…
それを思い出したら、大自然を脳の隅に片づけるでしょう。
冒頭の方にとって、理由は様々あるでしょうが、自分の生きる場所は変わらなかったのです。
もう一つ…
自分で選び求める刺激には、万難を排してもたどり着き、感動を確認するものです。
それは…自分の中にあったものの確認です。
それまでの生涯で触れ合った美しいものの結晶の実体化です。
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ひとは自分の身の回りの欲望を通しながら、戦いのない世界を願うといった、矛盾した存在です。
その欲望の優先順位は折々に入れ替わります。何に快感を覚えるかについては、階層的な誘因があるからである。
マズローが古典的ですがわかりやすいでしょう。
ただし、5段階の上にさらに崇高な目的が設定されたらどうでしょう。
それに向かって、個人の欲求を抑制あるいは廃棄することすらできるかもしれない。
何かに”忠誠”を持って初めて人はそれらに優先順位を設定します。
”忠誠”の相手が変われば意識は変わるのです。
それこそが「真の自分」です。
もし、たまさか六根で経験するものの中に「真の自分」を見てしまったらどうなるか。
どんな優先順位を立てても、落ち着かなくなるでしょう。
”それ”はごまかせないからです。
なだめることしかできない。
待たせることしかできない。
居場所が突然砂のようにあやふやなものになります。
世界は何も変わらないが、人の受け止める世界は変わるのです―
すなわち、”それ”と擦れ合うことは、命の危険がある経験なのです。
そこを生き延びれば、「覚醒」「回心」が起こるでありましょう。