小説「仮題・ヒギンズ教授の憂鬱」第一章-6
より。
その夜。LINE着信。
「先輩! 相談の続き、乗ってくれる気ありますか?」
当分話もできないと思っていた。
それほどあの顔は、コミュニケーションブロックの権化だったのだ。
「今からお邪魔していいですか?」
今は一人だ。昼間のことがあり、埋め合わせたい気分があったので、承知してしまった。
もう来るなと言ったのに。情けないものだ。しかも、俺がミチに弱気になるなんて。
ドアを開けて、少し入って、じっと待っている。
「入れよ」
「はーい」
おずおずと、そしてきょろきょろと。
デジャブ。
俺が教えたとおりの、男の部屋への入り方。
ミチはおもむろにつぶやいた。
「倉科先輩…前と変わってない」
「え?何が」
ドキッとした。
「この部屋、本がいっぱいだわ」ふふっと笑う。
部屋のことか。
「そんなにすぐ変わるわけない…」
ちょっと言い返してみたが、本棚に言及されて、満更でもない。
「今日はもう世間話はいらないぞ、ミチ」
「…じゃいいます。私、頑張ったと思う。倉科先輩のレッスンも、S先輩とのお付き合いも」
「もうだめなのか?」
「仕方ないでしょ? 頑張ってどうにかなるもんでもないみたいだし」
そうだ。
こいつは「夢」を叶えるために、努力したのだ。そして、実ったのだ。果実をどう扱おうと、ミチのものだ。それはそれでいい。
Sの味方をする義理など、俺にはなかったのに。「もっと努力すれば」なんてしたり顔でいうより、「師匠」としてできることはあったはずだ。
「昼間、な、考えなしな返事して済まなかった」
「…悪いと思ってます?」
「…あぁ。」
「じゃあ、もういいです」はじけるように、笑う。
「あー、すっきりした」
君の用事はこれだったのか。
「先輩、でも私頑張ったんです。先輩の言う通りあれもこれも」
「そうだな。大人っぽくなった。できなかったこといっぱいできるようになった」
「そんで、一生できなかったかもしれない経験もできました。先輩がついててくれたから勇気出していっちゃったんだと思う。ダメだったけど」
「結果出したじゃん、お前はほんといい生徒だったよ」
「うまくいかなくてごめんなさい」
「いや…相手との相性までリサーチしてなかったからな」
「相性って…体の相性はよくなかったけど」
「からだ…」
「え? え! いやだ、何もないですよ、S先輩とは!何もっていうか、キスだけ! 唇まで!」
「えっ? そうなんだ!?」
「体は清いままなんです~」
斜め上を見上げて手を優雅に振り上げて、歌うようにいう。ミュージカルか。
「だから、先輩」
少し斜め下から。
上目遣いに。
微かに、しかしはっきりと距離を詰めて。
少し唇を突き出して。
唇には、真っ赤な「本気の」ルージュが光っている。
「頑張ったご褒美に。卒業記念、下さい」
俺が。
教えた。
作法で。
すいっと距離を詰め。
また離れる。
吸い寄せられる。
息苦しい。目がかすむ気もする。
「彼女がいるって知ってるよな?」
声がかすれた。まずい。
「ご褒美だけですよ?」
ただの後輩が、”理想の女”として目の前にいるー