小説「仮題・ヒギンズ教授の憂鬱」第一章-5
より。
夏の恋人は忙しいものだ。
まして初めての相手となら、何をしてもうれしいに違いない。
しかし、ミチのLINEは、少し沈んでいた。
「んーS先輩ね/大事にしてくれてうれしいんだけど…なんかなー」
「なんだよ/早くも倦怠期か? 責任感じるよ/どっかで話聞こうか?」
「暇なんですね?」
憎まれ口を利きながらミチはうれしそうなスタンプを送ってきた。
ミチのマンションの近くのきれいな喫茶店に入った。光がいっぱいで、学生ばかりのため静かすぎず、おしゃれすぎず、抑えのきいた感じの店だ。
こういう店を選ぶようになったのか。
実践はやはり一番人間を鍛える。
「先輩、久しぶりに会えた…」 ミチは笑っている。
「会えないなんて言ってないだろ。あ、言ったか?」
「来るなって言ったよー。いいけど」
「髪を切ったのか…」
「あ、はい」
「…」
「自主的にですよ。夏だもん」
「あ、なんだ」
「なんだと思いました?」
「そ、そりゃ…」
Sの趣味かと思った。
けれど、それは、俺にもはなはだ好ましい、昔の内田有紀のような、ショートだった。
みなまで言わずに済むように、それで、と話を変える。
「楽しくないの?」
「楽しいですよ?」
「そう? 何してた?」
「コンサート行ったり、自転車乗りに行ったり…」
「サイクリング?」
「いえ、サイクルスポーツセンターですよ」
「おお、ほんとに自転車に乗りに行ったのか」
「そう…」
「そういうの好きだったんだ?」
「Sさんはね」
あ、と気づいた。こいつはインドア派なのか。
「初めての彼氏ができたんだ。なにをしても、初めての経験ってやつだよ。楽しめば」
「楽しいんだけど…」
はあ、とため息をついた。
「なんか私の話聞いてくれないし…」
男と女の永遠のテーマ。コミュニケーションギャップが見えた。
「お前がしゃべりすぎなんじゃないの?」
お前のペースに合わせるの大変なんだよ、というのは飲み込んだ。
「だって聞いてほしいじゃないですか…」
不服そうな顔だ。
「お互い慣れればいいじゃん」と言ってみた。
そして。夏中聞きたかったことを聞いてみようと思った。どこまで踏み込めたのだろう。それこそペースが合ってないのだろうか。
「それで…その…Sさんはどうなんだ」
「どうって」
「あー…恋人らしいことはしてるのか?」
「キス。何度もしたよ。でも…」
少し上目遣いにまっすぐ俺を見て、
「あんまり気持ちよくないんです」
いきなりミチの瞳が大きくなったような気がした。
実際にはほんの少しこちらに顔をよせただけだ。
「こんなもんなのかなって。でも、もっと恋愛って気持ちいいモノなんじゃないかって思って…」
突然、目の前に「おんな」が現れた。
恋愛指南をされている「生徒」のはずが、大人の相談をしている。
「へ、部屋にいったんだろ? 恋人としてさ」
「部屋もね、さっぱりと飾り付けてあるんだけど。ダンベルとか置いてあるんだよ」
「マッチョなのか?」
「それなのに本とか全然なくて」
倉科先輩の部屋と違くて…と付け加えながらため息をつく。
「新鮮味がないんです」
うーん。感覚の話は、答えようがない。
黙っていると、どんどんミチはぬかるみにはまっていく。
「そっか…私、S先輩を求めてたんじゃないのかも。恋に恋してたんだわ」
「過去形かよ! やめろよ」
「好きな人がいればよかったのよ。恋人がほしかったんじゃない」
今までの努力は何だったのか。責められるのは俺なのか?
「ううん、違う…やっぱり付き合いたかった…それなのに…私何いってんだろ」
「そ、そうだよ」
「私、恋愛に向いてないのかな…」
相手をしているのが急につらくなってきた。
話を打ち切りたい。もしくはこの場を去りたい。
そんな乱暴な気持ちが、口をついて出た。
「好きになって、お前から誘ってさ、捕まえたんだろ? せっかく彼氏彼女になれたんじゃないか。もうちょっと努力してみたら…」
「努力?」
我ながら、”問題を先送りしてこの場をやり過ごすための、投げ出すような言葉”に、十分聞こえた。
ミチの顔はすっと醒めていた。
「報告終わり。帰ります…」
あ…ああ…
俺はうろたえていた。
怒らせてしまった? いや、失望させてしまった?