内なる正義の核を作り上げるのはどんな努力か
ツイッターで「#検察庁法改正案に抗議します」が400万ツイートを越えた。
実数では58万人以上いる。
たくさんの文化人・芸能人が「思わず」「これには耐えられず」ツイートした。
#検察庁法改正案に抗議します
このハッシュタグをつけた人を揶揄するツイートはいくらも見られるが、真っ赤になって「今、しないといけないのだ」「なぜ分からないのか」と叱るものはあまりいない。
(今でないといけない理由は、黒川氏の動向以外にないからだ)
もっとも、芸能人の「#検察庁法改正案に抗議します」ツイートに対して憤っているツイートはあったようだ。
芸能人の癖に、よく知らないくせに、政治的ツイートなどするな、黙れと。
きゃりーぱみゅぱみゅさんなら脅せて、論争になったら負ける相手には仕掛けない。
(論争ではきゃりーぱみゅぱみゅのほうが優勢だったが)
婦女子を選んで脅すようなやつである。そんな奴の嫁にはなりたくない。ならないが。
あとそんな奴の子供になりたくない。
合理的な揶揄ツイート者達
それはさておき、もし政権の目的(権力維持)が自己の繁栄の条件にかなう者が、抗議ツイートを揶揄する発言をするのは、まあ合理的であろう。
声をあげてみて、仲間を発見せねばならないのであるから。
(もっともこの人たちは、自分の仲間がどんな人か、とっくに知っているはずなのだ。単にいいねやリツイート数が快感になっているだけか)
しかし、政権の得になることで自分はなんら恩恵のない、いやむしろ自由も尊厳も侵害される可能性の高まるような方が、抗議者に罵声を浴びせるのは、いったいどんな心理状態なのか。
不合理で不安な生存戦略
彼ら、彼女らは政権のすることなら何でも礼賛する。
あたかも精神的隷属下にあるようであり、他の基準はないらしい。
自分の内なる倫理基準というものが見受けられない。
明日には違うことを正義と主張して恥じるところがない。
倫理基準らしきものは持っているが、気分で反応が変わるのである。
ころころ変わるものは倫理の判断基準とはいえない。
そういうのは、本人にとっても不安なのである。
自分の言っていることが前と違っていることを指摘されるのは、怖いことである。
判断基準がころころ変わることを自覚するのは、悲しいことである。
自分の価値がない、あるいは能力が低いと指摘されるようなものだからである。
自信がなく、不安を抱えているときに、特定の問題に対して絶対安全な基準を示されると、流されたくなるものだ。
愛する人が言うことだからと、すべて従ってしまうDVの被害者のように。
権力者への思慕。
それは、自分に直接お褒めの言葉やお𠮟りの言葉がない分だけ、優しく「自信の根拠」を与えてくれる。
あなたは、国家の正義の実行者であるという思い。
長期政権であればあるだけ、長く幻想に浸っていられる。
そして安心して甘えて、時には駄々をこねることさえできる。ただし、そっぽを向かれるとみじめに取りすがることになる。
自分の頭で考えなさい
そのように判断を自分の外に委ねてしまうことは、一時は楽なことである。
ただし、基準が変わるたび、調整に苦しむことになる。
良かれと思ってやってきたことが否定されてしまうからだ。
そして、人を責めて腹を立てながら、自分の無力さを再確認して恐怖を感じるのだ。
彼らには、「人にはいろいろな考えがあるのだ」ということさえ、心底からは受け入れられない。
簡単に権力者におもねる人たちには「正義の核」がないのだ。
もしそれを自覚し、安心を得たいと思うなら、「正義の核」を磨き上げねばならない。
それは、自分の行動を、自分が「正しい」と思う基準に従って繰り返して行くしかない。
言い訳が必要なら、「正しい」と思っていないのだ。
例えば人に親切にするのと、蹴飛ばすのと、どちらが気持ちいいだろうか。
「そうしなければならない」とまでは言わない。
「それを自分は正義だと思っているかどうか」を自覚するだけである。
それでいいのである。
まったく言い訳が必要なく、快感だけがあるのなら、あなたは壊れているのだ。
私の近くには来てほしくない人種である。