救助者としての経験
TETSUYAです。
この日ですから。
名刺がわりに震災の経験を記しておきます。
1.17 阪神淡路大震災
当時京都で、脱サラ後二度目の大学生活をしていた私は、当時付き合っていた彼女とベッドで朝を迎え(この情報要るか…と言われれば、まあその、なんですけど)、早朝マンションの揺れで起きました。
テレビをつけると…まだ詳しい情報はありませんでしたが、震源は神戸だとニュースは告げていました。
そのころ弟は神戸で1回目の大学生活をしていました。
慌てて弟に電話をしたのです。弟は一人で寝ていました。だからその情報は(略)。
地震で起きず、私の電話で起きたのです。図太いな。
「あ? …ああほんまや、部屋の中めちゃくちゃや」
また寝る、といった弟に、不安を覚えつつもほっとして電話を切りました。
1時間もしないうちに、神戸に電話は通じなくなりました。日本中から電話が殺到し、回線がパンクしたのです。
弟の救援に行かなければ。京都は屋根や壁の落ちた家はあれど、地面が割れることはなかったので、彼女を家に送り届け、水や食料を持って出発の準備をしました。
しかし、防災意識の欠如から、迷走を繰り返しました。
私はまず車で出発したのでした。
高速道路を避けて1号線に乗り。このルート選択がほんとありえないことです。
ゆっくりとゆっくりと大阪に着いて、さて梅田新道で車が動かなくなっていました。
ようやく「馬鹿をやった」と気付いた私は必至で引き返し…
「救出」から「救援物資運搬」に、切り替えたのでした。
根本的解決になっていないことに気づかず、私は原付に物資を積んで、再出発したのです。
「ルートが間違っているのだ」とその時は気付くことはできませんでした。
そのころ、実は「山側」すなわち福知山越えで、妹婿が車で神戸に迫っていたのでした…!
私は、でこぼこになった道路と、ぎっしり車で埋め尽くされた国道を、命がけで南下しようとしましたが、やはりそれは「命懸け」でした。
大きな二輪に抜かされたり、ぼこぼこになった地面でこけそうになったりして高槻で一度引き返し、2度目は京都府を出ることなく引き返しました…
ヘタレでした…
弟の窮状を思い、自分の無力とヘタレっぷりに、悶絶していました。
明日は行くぞ…!
そう思っていたところへ、母から電話が…!
弟は無事、妹婿のトラックで救出されたとのことでした!
いくつもの教訓を残して、私の「救出者」としての経験は終わったのでした。
3.11 東日本大震災
その年、管理職として病棟の運営に心をすり減らし、日常の激務と進まない改革に疲弊していた私は、桜を待つ春のある日、揺れを感じました。それは自分の目眩のようでした。
ニュースで地震があったらしいと聞いた気がするけれど、気にする余裕はなく出勤しました。
病棟のテレビで。
とんでもない被害が出ていると。
津波が東北に押し寄せたと。
原発が危ないと。
私はそれらのことを知って、本当に、体がぐらりと揺れたのを感じました。
数か月後。
激しく熱い夏を超えることができず、抑うつ状態と診断され、自律神経失調症を発症して休職に入ったのでした。
後に、わかったこと。
震災で心を揺さぶられ、心身の不調を発した人は日本中に大勢いたことを知ったのでした。
PTSD、震災うつは必ずあなたを襲います。
ウクライナでも、現実がいくらでも心身を破壊すると同時に、不安が希望を奪い、いつしか絶望に変わり、助かる力を削る。
トルコでは未曽有の死者数の大地震が起こっている。
そんな地域と私たちは無縁でいられるでしょうか…?
PTSD、震災うつは必ずあなたを襲います。
トルコでは未曽有の死者数の大地震が起こっている。
ウクライナでも、理不尽な戦争が生活を破壊する。
現実がいくらでも心身を破壊すると同時に、不安が希望を奪い、いつしか絶望に変わり、助かる力を削る。
そんな地域と私たちは無縁でいられるでしょうか…?
智慧と勇気。
いま、私は新職場で「BCP」の構築のためのプロジェクトチームリーダーをしています。
BCPとは、災害が起こっても、組織が社会的使命を継続することができるように準備しておく、防災だけでない「業務継続計画」のことです。
災害対策・防災準備・災害対応・復興計画そして、計画の手直しサイクルまでを含みます。
備蓄のみならず、いろいろな知識を得ました。
災害時伝言ダイヤル171。
防災地区内の公衆電話。
シェアバイク。
罹災証明。
浸水想定地図(ハザードマップ)。
情報共有システム。
セーフティネットをしっかり私たちは知識として蓄えること。
そして、シミュレーションしておくこと。
加えて、必ず起こる、被災後の事象をも知っておくこと。
それらをどう使うか、知恵を働かせること。
そして…!
実行する勇気です。
周りを窺っていては、出遅れます。
なぜなら大衆の7割は日和見するからです。
(この数年、マスクやワクチンで思い知らされたでしょう?)
(なんならこの30年の社会・政治・経済など…)
大切な人を守るためには、勇気をもって動かなければならないと思います。
私もまだまだ勇気が足りません。
ジュニアよ親を超えていけ
TETSUYA Jr. の紹介です。
今年高校の卒業を迎えました…
公立の芸大を受験しました。
常識外れというか、そこしか受けなかったのです。
結果発表は卒業式の後でした…
不合格!
めでたく彼女は「我が家の誇り高き居候」となったのです。
受験浪人って「目標」がなければただのプーなんですね…
どうせ反省なんかしません。すべり止めなんか行く気がないのです。
しょうがない。付き合おうじゃないか。
来年まで牙を研ぎ続けるがいい。
私たちが入れ込む、娘の紹介です。
①社会問題への取り組み
学園祭で「あしなが育英基金」の募金活動をやっていました。全額送金、キックバックなしです。
寄付金の分け前で優雅に暮らすユニセフ地域大使たちとは違います。
あ、ちなみに黒柳徹子さんは日本でただ一人の本物のユニセフ国際大使です! 全額送金、キックバックなしです。
また、寄付の客寄せパンダになるために、ギターを練習し、ボーカル教室に通いまして、学園祭のステージに立ちました!
好きなことには手抜きなし。
ある時、授業でSDGsのプレゼン動画を作り、チームメンバーが厚労省だったか文科省だったかのコンテストに応募したところ、賞をいただいて、東京での表彰式に行ってました。
そのくせ「SDGsなんてまやかしだわ」ととっくに見放しています。
賞金ももらったくせに。
確かQUOペイでもらったのを私が買い取りました。
もちろん世界経済フォーラムのこともファイザーの犯罪(日本では報道されていないようですが、欧州会議をはじめ世界では次々訴訟が起こっています)も大枠を了解しています。ワクチソを打たなかったのは、私が何を言うより先に、自分の判断でした。
人権問題、差別問題にも敏感です。
英国で保育士をしながらジュニアを育てる
ブレイディみかこさん。
多様性やそれを守る努力の重要性
そしてその難しさを
息子の成長する目を通して
描き出します。
「ヤンキー君と白状ガール」は
ガッキー主演でドラマになった漫画。
視覚障害の少女と
世間に不本意にはじかれるヤンキー少年
その交流を楽しく書きながら
社会の「目」を暴き出します。
何度涙を流したかわかりません。
そうそう、卒業と同時に、伸ばしてきた髪をついに切りました。
「ヘアドネーション」のために、耐えて耐えて伸ばしてきたのです。
60cm超ですので送り先から喜ばれそうです。
親もずいぶんシャンプーやリンスにつぎ込んできましたが、ようやく解放されそうです。
私にはもうできないことを(笑)ジュニアがやってくれます。
②漫画・アニメ・映画が大好き
昨年は「犬王」と「平家物語」にフィーバーしました。
グッズもたくさんサンタさんに運んでもらいました…
有償ですけど(@_@)
どこから情報を得るのか、やつがチェックした作品は、ヒットしたり話題になったりします。
私はもう、教えられるばかりです。
テーマのみならず、「脚本・画面構成・映像美・色・空気感」などなど…やつが褒めるポイントはいろいろな視点に渡るのです。
そういえば、高校では演劇部に属しました。
ライティング、音響、そして脚本。本業は何?
裏方を極めたいと言っていました…
今はとりあえずデザイナーを目指しています。でもいつか「監督」役を始めるように思います。
③LGBTも飛び越えてます。
ジェンダーの問題では私と対等に討論しています。いえ、押されっぱなしかな。
映画「リリーのすべて」も「ミッドナイトスワン」も、ジュニアに見せられました。
セクハラやジェンダー問題はもう、私が教えるのではなく、私が指摘される事項です。
ああ、「大奥」(よしながふみ)で日本史を勉強したため、「徳川将軍がほぼ女にしか思えない」と困っていました。
BLも大好物です。部屋にBL漫画があふれかえっています。コミケにも時々行ってます。
男女平等を植え付けすぎて、見境がないようです。
でもリアルの彼氏もしくは彼女を連れてくる気配はありません。
「ぼくのパパとパパの話」は
MMカップルとその子育てを中心としたお話です。
不覚にもジンと来つつ、
まだまだ自分の意識が甘いことを反省。
④クリエイターとして
早くに液タブ(液晶タブレット)を買い与えたために、デジタルアートはバリバリでき、なんならアニメも自作できます。
なにかキャラクターを描いて、知り合いの人の企業に買われていました。ちゃんと契約書にサインしてました。いくらもらったかは知りません。妻は知っているでしょうが。
上記の賞ももらったし、元は取った。
なんていうと「けち臭いことを」と怒られそうです。
まとめ。
このように、ジュニアは私をはるかに越えていきそうなやつです。
もちろん私の何を継ぐ気もないでしょう。
継いで欲しくもありません。
きっともっと大きなことをできるだろうから。
ジュニアなんて呼ばせてもらうのはもう終わりでしょう。
「へっ…私がオリジナルだよ♡」と嘯いているでしょうから。
自分の人生でやっとな私は、娘に関しては一番近くの観客として楽しませてもらいます、これからも。
卒業式~親からの送辞
娘の卒業式が終わりました。
感無量。一日中運転手で頑張りました。
「かわいい我が子」から「ただの居候、お小遣い付き」になります。
え、扱いがひどい?
大学の合格発表の結果次第では一気に格付けが上がります。
戦々恐々です。
なにせ、後述の理由で、1校しか受けていないので、まだ大学生になれるかどうか不明なのです…
さて、謝恩会のイベントの一つとして、「子供に送る手紙を書いてください」といわれました。
これはいい企画だ。
もとより一番伝えたいことは気恥ずかしくて言えないもの。
頑張って書きました。
ではその内容の写しを、うろ覚えで書き留めます…
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
「今、君は自分を楽しんでいますか。
それはよかった。何よりです。
無事卒業の日を迎えましたね。
お父さん・お母さんは、君に喃語(赤ちゃん言葉)を使ったことはありません。子供の君を楽しみつつ、大人になって対等に相手をしてくれる日を願っていたからです。
おかげで君は(両親に似ず)物おじしないコミュ力の強い人に育ち、やりたいことにまっすぐにチャレンジする性質を身につけましたね。
好きなことなら大きすぎる目標でも軽やかに取り組んでいく姿勢に、時に圧倒されました。
常にマイペースなものだから、ハラハラもしましたが!
小さいころから絵は思いっきり描く方で、いくつも賞を取り、親を喜ばせてくれました。
そのうち学習の場面でも、演習発表の動画で、公的な賞までもらうようになりましたが、美術方面は趣味にするよう一応ブレーキをかけてきました。頭のいい君のこと、どんな仕事をしてもそこそこできるだろうと思って、絵やデザインは「本業」のスパイス、あるいは「趣味」にすればいいって。「仕事」にしたら、やりたくないこともしなきゃいけないしね。
ですが、君はそんな親の思惑を突破していきました。美大にチャレンジしたいと言い出した時は、ついにこの日が来たか…と感慨深いものがありました。
止めてもやりたいといったのだから、自分の責任でやり遂げてくれますね!
学校も自分で決めましたね。6年間はどうでしたか?
演劇に、初めてのギターで学園祭出場、決めたことはやり遂げる姿勢に惜しみない拍手を送ります。
大人の責任と自由の価値について、ずっと話をしてきましたね。
君の学校には制服がない。時限のチャイムもない。休校や欠席の後始末も自分で先生に交渉するという、自主自営の精神によって作られた学校を私たちは選びました。
ここで学んだ隣人や世界へのリスペクトは、自由を守るための力です。
守ってくれた学校に感謝しつつ、リスペクトを忘れないで行きましょう。
卒業おめでとう。
今は、とにかく自分の道を行け。
お父さん、お母さんはいつも定位置で見守っています。」
・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…
お読みいただきありがとうございました。
どうも、頑固なこの娘は。行きたい大学が1つしかないのだそうです。
まあ好きなようにやらせました。